【開幕特集①】衛藤晃平新HCインタビュー前篇、理論派コーチのできるまで(9月29日 香川ファイブアローズ)

「違う、そうじゃない!」試合で、練習で容赦なく声が響く。激しく熱い叱責に選手も直立。それでいて、かなりの体育会系と思いきや次の瞬間には複数の選手を呼びしっかりと知恵を叩き込む。今までと比べてもかなり理論派のヘッドコーチが衛藤晃平だ。インタビューでは、多彩なバスケット用語を出身の大阪弁でケラケラ冗談を交えて笑いながら話す気さくな人柄、1時間を超えたインタビューも「しゃべるのすきなんでなんぼでも。」と気さくに応じてくれた。
新天地も憶することなくすでに溶け込み、ファイブアローズの成功を信じるHCに期待が膨らむ。前篇で経歴とバスケット観、そして後篇で今季の香川ファイブアローズについて聞いた。

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―小さい時からバスケットはしていた?

いえ。高校生からですね。小学校の時はサッカーしていました。中学の体育の時に上手上手とおだてられてたんでバスケでもするかと入ったんですけれど。高校へ行ったときにすごいうまいのがいっぱいおるな、となって真面目にバスケットにいそしむことになりました。

―コーチとなったのはいつ?

大学で4年の時に僕の代だけインカレに行けんかったんです。そこで後輩たちになんも残せなかったのが、すごい後悔ですよね。それに振り回されて。当時は国体でやろうかなと思っていたんですけれど、後輩たちにもう一回教えられるものがあるということで大学院に行きながらコーチごっこはさせてもらいました。
バスケを続けるために院へ、お前の好きなようにやっていいからと先生に言って頂けたのもあって。
そして、大学院2年の時にやっぱりインカレに行けなかったんですよ。春の大会の時はちゃんと勝ってたんですよ。すごくいい選手が揃っていたのに秋は逃したんですよね。彼らをインカレへ連れていけなかった。
もっとバスケットを勉強しなければならない。彼らの青春の1ページを貰っときながら連れていけなかったんですから、もっとバスケットを勉強してバスケット界に貢献しないと彼らに失礼だ、という気持ちに行きついたんです。

―なぜプロバスケットの路へ?

その後、浜松に行き、アメリカへいったんですけれど、向こうのバスケットの文化と日本の文化は違っていて。当時はbjも新しく加わったり、つぶれていくチームがあったり、日本のバスケット界はまだまだ何色にも変わっていけるという風に感じて、直接そこの変化に携わりたいと思うようになって。

―アメリカのバスケットをどう感じた?

老若男女入り乱れてる興奮したステージというのは刺激的でしたね。教育に興味のある人間なのでいろんな世代を見たいと思っていたところに、幼い子もおじいちゃんも男も女も健常者も障害もたれた方も一緒になって閉ざされた空間にいるというのは刺激的でしたね。文化になってますよね。スポーツすげえじゃなくて、余暇の過ごし方の一つになってますよね。レジャーの一つ。

―日本でそんな場があるとしたら?

日本では相撲ですね。やっぱり老若男女入り乱れていて、時間いっぱいまではぺちゃくちゃぺちゃくちゃおしゃべり、で、最後は相撲をしっかり見届けて、そんな感じですよね。

―プロのコーチになって。当時はバスケット有力大のルートから外れていたですよね。

疎外感だらけですよ。コーチの講習会や会議へいっても一人ですし、OG、OBはみんなどこかの大学つながり。ずっと孤立していましたし、選手も、新しくアシスタントコーチで入りましたけれど、「はぁ?」ですよね。耳は傾けてくれましたけれども説得力はなかったと思いますし。当時はやめたい、辞めたいと思っていました。
僕は多分バスケットが好きじゃないんですよ。年々どっかで変わるんかなと思っていたんですけれど、成績残して自分だけがのし上がりたいなんてギラつけない。いろんなところでけんかもしたし迷惑かけたし、それをかばったり叱ったりしてくれたお世話になった方々へ、バスケットへ恩返しをしたい。そういう意味で後ろ指さされんと成功していたいとは思いますけどね。

ーそして、新潟アルビレックスの女子バスケへと進んだ。

新潟はめぐりあわせで行きました。北信越でつながりもあったので。「0からスタートするから、力かしてくれへんか」といわれて。もう一度新しい気持ちでバスケットに取り組めるなと。
新潟ではコーチングとは何かを考えさせられましたね。感情でものをしゃべられないんで。原因と結果、バスケットの表と裏を調べて納得して、一番大切な言葉だけをかいつまんで伝えないとうまくいかない。
僕がどれだけ雰囲気とか感覚に頼っていたかを身にしみましたね。

ー男子と女子での違いとは?

例えばスクリーンひとつ。スクリーン行くってことしか男には言わないですけれど、女の子はどのタイミングでどの角度でというところまでいわないといけないので、細かいところまで調べないと、分析しないといけない。そこまで言わないといけないし、説明が長すぎると今度は聞いてくれない。「話なげーよ」ですよ。人間関係の作り方も勉強になりましたよ。上から目線でやってもなかなかうまくいかない。

ーそして奈良。bjへ戻る決断をした。

奈良へ行ったのも本当になりゆき。声がかかったので。チームの状態は(新潟と同じく)悪かったんですが、質が違いました。まとまりに問題があるチームだったんですね。同じ方向を向いてバスケットができていない。そんな中で最終的にプレーオフ争いまで持って行けたのはちょっと、ほんのちょっとですが(コーチングが)できたのかなと思います。

 

―後篇へ続く

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