【インタビュー】―変化を与えなければチームは変わらない― もっとも苦しい時代を支えてきたK2Oの想い~前篇(7月8日 香川ファイブアローズ)

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毎年、シーズンオフには選手の移籍などで寂しく感じるが、こんなに悲しい思いは初めてかもしれない・・・。

bjリーグで“高松ファイブアローズ”として10年間プレイし、次シーズン(2016-2017)からは新リーグ・Bリーグで“香川ファイブアローズ”として戦う地元バスケットボールチーム。ファイブアローズは苦難の連続だった。様々な理由があるが、とにかく勝てなかった。それでもブースターは応援し続けた。どんなに苦しくともコートに立ち、懸命なプレイをみせる選手のために。
その選手の一人がK2O(カツオ)こと鈴木正晃選手。
ファイブアローズで6年間プレイし、1番苦しい時代を支えてくれた選手。そんな鈴木がチームを去るとは思いもしなかった、というか想像すらしたくなかった。鈴木がファイブアローズのコートに立っているのは当たり前のことだと思っていた。けれど、イエローのユニフォームに身を包んだ鈴木の姿を見ることはもう出来ないー。

“高松ファイブアローズ”としての第一幕を閉じた今、高松ファイブアローズを象徴する選手・鈴木のインタビューと共にチームの歴史も振り返ってみたいと思う。

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2006年11月、創設2年目のbjリーグに華々しいデビューを果たした高松ファイブアローズ。ジュリアス・アシュビー、ラシード・スパークス、アイザック・ソジャナーといった外国人名プレイヤー、喜多誠、山田大輔らベテラン日本人選手、岡田優、菊池宏之ら勢いのあるルーキーが顔を揃え、参入1年目にしてファイナル進出。そして準優勝という栄誉を手にした。

参入2年目となる2007-2008シーズンは30勝14敗。ウエスタンカンファレンス2位という成績を残しながらもファイナル4進出を逃す。それでも観客数は3,000人を超えるなど人気・実力とも申し分ないものだった。

bjリーグの中でもトップを走り続ける高松ファイブアローズに異変が起こったのは2009-2010シーズン。メインスポンサーが撤退し資金難に陥ったファイブアローズは選手補強などがままならずウエスタンカンファレンス最下位に転落。

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2010年5月にはチーム解散の危機に陥るが、なんとか2010-2011シーズン参戦にまでこぎつけた。
その2010-2011シーズンに加入したのが鈴木。専修大学を卒業後、ストリートボールリーグ「LEGEND」でプレイしていた鈴木は大学の同級生、後にファイブアローズでも共にプレイすることとなる堤啓士郎の兄の勧めでbjリーグのトライアウトに参加。新人ドラフト会議1巡目全体4番目でファイブアローズの指名を受ける。一度は解散の危機に陥ったチームに加入することに不安はなかったのだろうかー。

「それはなかったです。難しいことは全然考えてなかった。バスケットが出来るなぁって嬉しかっただけ」

当時、チームにはスパークス、喜多といったベテランPGが存在していたこともあり、入団当初こそ出場機会が少なかったものの徐々に出場時間を増やしていった鈴木。

「金澤さん(当時の金澤篤志HC)にピックしてもらえたことで僕のプロとしてのバスケット生活がスタートできた。金澤さんがいなければ僕は高松にいなかったと思うし、ここまでバスケを続けているかどうかも分からない。金澤さんの思いに報いたいなと思ってましたし、今でも金澤さんには凄く感謝しています」

鈴木のプレイを一言で表すなら、とにかくスピーディー。2m以上もある大柄な外国人選手を相手に176mの鈴木は速さで対抗。敵をスピードでかわし、懸命にゴールに向かう姿にブースターは熱く燃えた。親しみやすい人柄もあって特に子ども達から大人気だった。

「bjリーグは外国人も多いし、今までそういう環境でバスケをした事がなかったから早く慣れて、どんどん経験を積んでいかなきゃなって思っていました。そして自分の足りない点を徐々にでもなくしてチームに貢献できるようにならなきゃと。」

自分に1番足りなかったものはPGとしてのゲームメイクだったと鈴木。バスケにひたむきな鈴木は自身のウィークポイントを少しずつ克服し、プロ2年目となる2011-2012シーズンにはスターティング5に名を連ね、出場時間も前のシーズンより400時間以上も伸ばした。しかし、チームはこの年、2勝50敗という惨憺たる結果。選手たちは一体どんな思いでプレイしていたのだろうか。

「ブースターの皆さんには見捨てず応援してもらえているのに申し訳なかった。そんなブースターの為にも、もっと頑張らなきゃと思っていました。勝てないことが、とにかく悔しかったし苦しかった」

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翌2012-2013シーズン。鈴木はこの年もファイブアローズでプレイすることを決める。正直、移籍などは考えなかったのだろうか?

「他のチームに興味がないことはなかったけど自分を必要としてくれるチームでやりたいと思っていた。あんな結果になった次の年に辞めたりチームを変わったりするのは自分的にはどうなのかなとも思ったし。2勝50敗という成績のチームを変えたいという思いも強かった」

この年から、少し鈴木のプレイが変わったように見えた。以前は、K2Oというニックネームがぴったりの元気いっぱい・がむしゃらなプレイだったが、落ち着いてきたというか大人しくなったというか・・・。

「特に意識していたわけではないですが、チームとしてのバスケットを大事にしていた。

チームの決まりというか、チームの共通理解の中でバスケをやっていただけ。自分が活躍して点を取って勝ってやろうっていう気持ちも大事だとは思うんですが、やっぱりゲームを見て・コントロールするという自分の仕事に徹することで勝てるんだと思っていました。決して消極的になっていたわけじゃないです。チームでの自分の役割をしっかり果たす、それが勝つための1番のやり方だと思っていました。

当時の前田HCからはどのような役割を指示されていたのか。

「役割は自分でも探していかなきゃいけない。言われてやるのも当然だけど、自分で考えながらもやっていかないとダメ。自分の役割はチームへの貢献。選手みんなが気持ち良くっていうか、チームでバスケットをやってるなって選手が思えるようなバスケットがしたかった。2勝50敗の時は、これが全く出来てなかったです。チームがバラバラとまではいかないけど、雰囲気は良くなかったですね」

どん底からの巻き返しを図るべく、アウトサイドの要となるデクスター・ライオンズ、インサイドにはポール・ウィリアムスを獲得したファイブアローズの2012-13シーズンは20勝32敗で西地区10チーム中9位。決して褒められた成績ではないが、ライオンズのリーダーシップに選手たちも共鳴し、一筋の光が見えてきたようなシーズンだった。

そして、2013-2014シーズン。プレイオフ進出の最後の一枠・西地区6位をかけ、ファイブアローズと大阪エヴェッサが最終戦まで争うこととなった。最終戦の結果は、高松は大分に勝利。しかし、大阪も島根を下してファイブアローズはレギュラーシーズン7位という成績。僅か勝点1差でプレイオフ進出を逃す。

「大分との最終戦。あの時はうちが勝っても大阪が勝てばプレイオフには出られないという状況。ハーフタイムに無理だっていう情報が入って、さすがにテンションが下がりました。あれが一番印象に残っている試合かもしれない」

~~後篇へ続く
(記事:中条さくら)

 

 

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